瑞丘八幡神社 御由緒
瑞丘八幡神社(みずおかはちまんじんじゃ)、通称名を垂水厄除八幡神社といいます。創祀年代は不詳でありますが、垂水の古社である海神社が当八幡宮の主祭神、神功皇后の祭祀により創祀されたと伝えられており(約1800年前)、その由縁から、往古よりこの地に祀られていたと思料されます。
現存する最も古い記録につきましては、現在のご本殿のご造営(文政6年、1823年)の際に奉納された棟札の裏書に、
「永禄七甲子年従上棟文政六癸未年迄二百六十年至」
(永禄7年[1564年]の上棟より文政6年[1823年]まで260年に至る)
と記されています。
一方、その棟札には、鎮守の西垂水村のみならず、東垂水、塩屋、下畑、東名、西名、滑、中山、奥畑、各村の庄屋、年寄の記名があり、また、明石藩家老の寄進安堵状(元和6年、1620年)に「垂水郷八幡宮」と記されていることから、垂水各村、明石藩からも尊崇され、垂水の八幡宮として祀られていたことを伺い知ることができます。
当八幡宮が「垂水の厄神さん」や「厄除八幡さん」と呼ばれるようになったのは、中世(江戸時代)の頃からです。
もともとは、矢羽田(ヤハタ)の神、農耕の神として垂水の田畑が見渡せる現在の場所に祀られてきましたが、中世に入り、その畏きご神威により厄除開運の神として崇敬を集め、毎年、正月18日、19日に厄神祭を行うようになりました。
そして、この厄神祭は開運厄除、健康長寿、家内安全を祈る祭事として今も受け継がれています。
昭和6年に天神さま、荒神さま、豊臣秀吉公を祀っていました瑞丘社が八幡宮に合祀され、名称を「厄除八幡神社」「垂水郷八幡宮」から「瑞丘八幡神社」へと変更し、現在に至っております。
合祀御由緒
古くより、西垂水には日向大明神(海神社)、垂水郷八幡宮の他に、瑞丘社(天満宮)、荒神社、御霊社、太神宮(現在は東垂水地区)の四社の別宮が祀られていました。この内、太神宮以外の三社は次の変遷を辿り、当八幡宮に合祀されることになりました。
1.瑞丘社(天満宮)
垂水区千代ヶ丘や商大筋のあたりを流れる天神川の名称の由来となっているこの神社は、現在の垂水区天ノ下町の西側に祀られていました。
明治41年に荒神社、大正13年に御霊社を合祀した瑞丘社は、昭和6年に八幡宮に合祀されました。
2.荒神社(荒神さん)
現在の垂水区海岸通の東のあたりは昔は荒神町と呼ばれ、荒神さんを祀る社があり、その荒神社は明治41年に瑞丘社に合祀されました。
なお、その荒神町が奉納した石燈篭が八幡宮に残っております。
3.御霊社(豊臣秀吉公)
現在の垂水区御霊町に祀られてた御霊社は、大正13年に瑞丘社に合祀され、その瑞丘社は昭和6年に八幡宮に合祀されました。
その後、八幡宮から御霊社の御分霊を御霊町に奉斎しています。また、秋祭には、八幡宮の神輿について巡幸しております。
西垂水の自棄獅子
今から200年前の江戸時代の昔より、当八幡宮の10月10日の秋祭り宵宮に陸ノ町の青年が獅子を装い、一本歯の下駄を履いた天狗やお囃子の屋台とともに西垂水村の各家をまわり、厄祓いと無病息災を祈願して獅子舞を舞っていました。
舞振りの中に、足を噛んだり、背中を噛んだりするのを見て、「陸の自棄獅子」と呼ばれるようになりました。そして、11日の本宮には八幡宮の子ども神輿のお供をして、海神社に宮入し、そこから西垂水の東西のお旅所で獅子舞の奉納が行われていました。
戦後、獅子舞を続けることが困難になり、40年という長き間中断していましたが、西垂水で育った年配の方々が幼き頃、獅子を見ると逃げまわり、恐る恐る噛んでもらったことを懐かしみ、再開を待ち望む声が上がり始めました。
その声に当時の西垂水青年団の青年たちが立ち上がり、先輩方に教えを請い、先輩方も熱心に稽古をつけ、こうした両者の想いと尽力の結果、平成12年の秋祭りに見事に再開することができました。
その後、「陸の自棄獅子」を「西垂水の自棄獅子」として保存して行くことになり、「西垂水自棄獅子保存会」を発足する運びとなりました。
現在も当八幡宮において、10月11日の秋祭り、子ども神輿の出御の前にこの獅子舞の奉納が行われます。